カーチスのボタニカルマガジン-3 (第二&三巻) "Botanical Magazine" Vol.2 & 3
ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い(The art of botanical illustration 1951)』森村謙一訳(八坂書房,1986)より,引用
後続本の価格と挿入される図版数は年によって変動したが,平均図版数は毎年四十五点ほどであった.
はっきりした証拠は何もないが,『ボタニカル・マガジン』のもっとも古い図版の何点かはカーナス自身の制作とされていた.しかしウィリアム・キルバーンとジェイムズ・サワビィ,一年後にシドナム・エドワーズの三人が,最初の二十八年間の全作品のほとんどを担当した もっともそのうちの大部分はエドワーズが彫版師サンスムと一緒に制作したのである.
1799 年にカーナスが世を去った後は,友人のジョン・シムズ(1749−1831)が運営全般と編集業務とを引き継いだ.シムズの編集のもとで多数の南アフリカの植物,ことにアヤメ科植物が図示された.
シドナム・エドワーズが雑誌との関係を断った 1815 年以降,いろいろな画家たちが図を描いたが,その中にジョン・カーチスとウィリアム・ハーバートもいた.そしてウィリアム・ジャクソン・フッカー 1785−1865)が登場した.フッカーは 1826 年に雑誌の編集と作図とを引き継いだ.長年にわたるウィリアム・フッカーの在任中,1841 年に新しく国営化された王立キュー植物園の園長にも就任したので,植物園と『カーチス・ポタニカル・マガジン』(Curtis's Botanical Magazine, 当時このように呼称された)との結び付きは非常に密接かつ親密になった.そうしたつながりで入念な解剖図と断面図がつけられるようになり,今やこの雑誌は真に科学的性格が備わり,この雑誌は「婦人方のためのお絵描きの本」に過ぎないと 1805 年に冷笑したソーントンの考えは,ついに取り消されなければならなくなった.
1834 年に,ウォルター・フィッチがフッカーの図版制作を助けるために加わり,まもなくこの雑誌の唯一の専任画家となり,1877 年までその任にあった.1845 年以降はフィッチは自分で石版画も制作するようになった.そしてその作品は,彫版師の手になるばかりではなく,自ら製版することによって,ずっと質がよくなった.

[49] Soldanella alpina. Alpine Soldanella. Germany,イワカガミダマシ(第二巻, 1789)
[84] Tussilago Alpina. Alpine Coltsfoot. a native of the Alps, of Switzerland, and Austria(第三巻, 1790)

[92] Saxifraga Sarmentosa. Strawberry Saxifrage. a native of China(第三巻, 1790)
[128] Alyssum Deltoideum. Purple Alyssum. a native of the Levant(第四巻, 1790)
いずれも銅版手彩色
後続本の価格と挿入される図版数は年によって変動したが,平均図版数は毎年四十五点ほどであった.
はっきりした証拠は何もないが,『ボタニカル・マガジン』のもっとも古い図版の何点かはカーナス自身の制作とされていた.しかしウィリアム・キルバーンとジェイムズ・サワビィ,一年後にシドナム・エドワーズの三人が,最初の二十八年間の全作品のほとんどを担当した もっともそのうちの大部分はエドワーズが彫版師サンスムと一緒に制作したのである.
1799 年にカーナスが世を去った後は,友人のジョン・シムズ(1749−1831)が運営全般と編集業務とを引き継いだ.シムズの編集のもとで多数の南アフリカの植物,ことにアヤメ科植物が図示された.
シドナム・エドワーズが雑誌との関係を断った 1815 年以降,いろいろな画家たちが図を描いたが,その中にジョン・カーチスとウィリアム・ハーバートもいた.そしてウィリアム・ジャクソン・フッカー 1785−1865)が登場した.フッカーは 1826 年に雑誌の編集と作図とを引き継いだ.長年にわたるウィリアム・フッカーの在任中,1841 年に新しく国営化された王立キュー植物園の園長にも就任したので,植物園と『カーチス・ポタニカル・マガジン』(Curtis's Botanical Magazine, 当時このように呼称された)との結び付きは非常に密接かつ親密になった.そうしたつながりで入念な解剖図と断面図がつけられるようになり,今やこの雑誌は真に科学的性格が備わり,この雑誌は「婦人方のためのお絵描きの本」に過ぎないと 1805 年に冷笑したソーントンの考えは,ついに取り消されなければならなくなった.
1834 年に,ウォルター・フィッチがフッカーの図版制作を助けるために加わり,まもなくこの雑誌の唯一の専任画家となり,1877 年までその任にあった.1845 年以降はフィッチは自分で石版画も制作するようになった.そしてその作品は,彫版師の手になるばかりではなく,自ら製版することによって,ずっと質がよくなった.

[49] Soldanella alpina. Alpine Soldanella. Germany,イワカガミダマシ(第二巻, 1789)
[84] Tussilago Alpina. Alpine Coltsfoot. a native of the Alps, of Switzerland, and Austria(第三巻, 1790)

[92] Saxifraga Sarmentosa. Strawberry Saxifrage. a native of China(第三巻, 1790)
[128] Alyssum Deltoideum. Purple Alyssum. a native of the Levant(第四巻, 1790)
いずれも銅版手彩色



副題の「キュー植物園栽培植物図譜(or Flower-Garden Displayed)」によって,雑誌の目的が定められた.それは「露地,温室,加温室で栽培されているもっともあでやかな異国の植物」を図示し,解説を施すことであった.図は「自然に近い彩色が」なされ,「リンネの分類法に基づいた種名や属名,原産地と開花時期」,並びに「その栽培に役立つ定評ある情報」も記され,「淑女・紳士・庭師の方々にお使い頂き,栽培する植物に科学的に親しんで頂くため」とした.



ウィリアム・カーチス(1746−99) は,ハンプシャー州のアルトンで生まれた.生家は現在,カーチスを記念して小さな博物館に変わっている.ある地方の薬種店での見習奉公のあと,二十歳のとき,ロンドンで商売を始めた.裕福とはほど遠かったが,まもなく助手を雇った.しかし,最後にはその商売から手を引くようになった.自分が本当にしたい仕事−植物の研究を続けるのに必要な時間を得るためであった.カーチスは今や読書,採集,バーモンジーでの庭作り,同好の士との意見交換などに明け暮れするようになった.努力の甲斐あって実行したこと考えたことが首尾よく運び,1722 年には二十六歳の若さでチェルシーの薬種協会の園芸教授と実地指導教授に任命された.












